アテネで教え、アテネから追われ。尊敬の場所を去ったアリストテレスの悲哀
天才の日常~アリストテレス<後篇>
再びのアテネ
アテネに戻ったアリストテレスは、その後約13年ほどの間、「リュケイオン」と呼ばれた体育館で講義を行った。この体育館には屋根がついた遊歩場があり、アリストテレスはそこで弟子たちと共に歩きながら講義をしていた。このことから、アリストテレスの弟子たちの学派は、散歩をしながら議論をするという意味の「逍遥学派」と呼ばれるようになった。
だが、後に弟子の数が増えすぎて、結局は普通に座って講義をするようになったそうだ。リュケイオンで学ぶ学生は、アリストテレスを継いだテオプラストスが講義をしていた頃には2000人ほどにまで増えた。 紀元前323年に遠征中のアレクサンドロス大王が急死すると、アテネでは再び反マケドニアの機運が高まり、アリストテレスも神への不敬罪で訴えられた。これは、ソクラテスが訴えられた罪の一つでもある。
アリストテレスは「アテネの人々に再び哲学に対する過ちを犯させたくない」と言い残し、アテネを去って母親の故郷に隠遁した。そして、63歳で長年患ってきた胃の病のために死んだとも、トリカブトを飲んで70歳で死んだとも言われている。
生涯のうち、アリストテレスがアテネを去ったのは二度であるが、そのどちらの時も民衆の排外主義の高まりが背景となっていたのである。それでも彼は「ソクラテスの死」という事件を繰り返させないために、自主的にアテネを去ったのだろう。アテネの人々に向けて残した言葉からは、アテネの街や文化に対する深い敬意と同時に、彼の悲哀の気持ちが感じられる。
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